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© 2019年8月30日

主の御体を見極める

アリエル・ブルーメンソール

communion

「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(1コリント11:29-30)

コリントで何の間違いがあったのでしょうか。一体何の罪が、癒やす事、そしていのちを与える主の晩餐を分かち合う事が、結果としてそのような病気や、死までも生じさせてしまったのでしょうか。第5章にある性的な罪でしょうか。それともそれぐらい重大な他の罪でしょうか。

「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。(1コリント11:33)

コリントの初代教会では、毎週の集会は食事で始まり、パンとワインが、イエシュアの御名と御わざを覚えるために分かち合われます。食事の後、信者らは礼拝、祈り、教え、そして霊的な賜物を実施しました。以前の章から分かるように、コングリゲーションには分派がありました。ある者はパウロに付くと言い、ある者はアポロの教えを好み、そしてさらにある者は教師を持たず、ただイエシュアだけを望むと言う者がいました。

あるメンバーは毎週の集会に誰よりも早く到着し、自分の「徒党」を組んで、祝福を述べ、パンとワインの祝福時に主の御名を用いて、食事を取りました。その後、他の人が到着しましたが、ある者は食べ物を持っていましたが、ある者は食べ物がありませんでした。

あなたの隣り人を愛せよ

パウロはこれらの早く到着する人々を、単なる非礼ではないとし、厳しく非難しました。彼らは「主の御体の見極め」に失敗したからです。これは、パンの一片が、実際のキリストの身体への神秘的な変異を正しく理解するのに失敗した、という事ではなく、文脈から明かなのは、彼は、聖徒の週毎の集会に神が意図して存在させる力、聖性、そして、権威を人々が正しく理解していない事を現しています。

各信者は生ける石で、共に私たちは、神ご自身がお住まいになる聖なる神殿に建て上げられています(1ペテロ2:5;1コリント3:16-17)。聖書によると、この神秘的に見えるメシアの御身体/神殿の基本的な表現は、単純に私たちは「地元の」コングリゲーション—それが家、公的な建物、または森の中であったとしても-と呼びます。 コングリゲーション全体のこの週毎の集会には何か特別な、何か非常に聖なるものがあります。

注目しましょう!

もし私たちがこの聖性を軽視するならば、他者がいる事、いない事に注意を向けず、又は、一つの「徒党」内で交流し、コングリゲーションの他の人々と適切に交流しないのならば、私たちは「主の御身体」の見極めに失敗する危険性を帯びます。そしてこの失敗により、特に私たちが聖餐式を行う際、大変な代償を支払う事となります。それぞれが、それぞれの交流において、自身を確認しましょう(11:28)。そうすれば、私たちは主の癒やしの臨在の中で満ち足りる事でしょう。


悪による不意打ち–何をすればいいのか

Asher

アシェル イントレーターは 、彼の子どもたちに対する攻撃と、他の指導者からの攻撃によって隙を突かれました。これらの衝撃を予測しておらず、彼はそれらによる妨害にすぐに対処する準備が出来ていませんでした。

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