日本語

logo


2017年12月29日

部分的に預言する

アシェル・イントレータ

rain

私たちは、今日の使徒的で預言的な賜物に関する問題について聖書的なバランスを取るよう求められています。これらのバランスを求めていく上での鍵は、「私たちは部分的に預言する」というフレーズです。

第1コリント13:9 - 私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

愛は最も大切な命令です。愛し続けるとき、私たちの愛はより成熟していきます。そういった成熟の過程で、忍耐と謙遜を学んでいきます。より深く知るほど、私たち自身が如何に分かっていないかに気付くのです。他人の方が私たちの知らない事も知り、見るようになるという事実を受け容れるのです。この姿勢により、一致を保ち、分裂を防ぎます。

「預言することも一部分」という文は2つの解釈ができます。全く継続的な預言の賜物を信じない方、および預言は完全なものでなければ、偽物だという意見に対しては、私たちは新約聖書の預言についての解き明かしや理解が部分的な性質を備えていることに注目することができます。私たちは「鏡にぼんやり映るものを見ています」(第1コリント13:12)。 

それでも私たちは預言します。新しく生まれ、聖霊に満たされている者は全て、預言的な啓示をする能力が与えられているのてす(第1コリント14:5, 6, 24, 31, 32, 39)。預言が一部分だけであるが故にその預言が本物でないという意味にはなりません。このため、私たちは預言を「見分けて」、「ほんとうに良いものを堅く守るように教えられています(第1テサロニケ5:21)。もし預言的な全てのものが完全で完璧であるなら、「本当に良いものを堅く守」り、悪いものを拒絶する必要はなくなるでしょう。

新約には、人が悔い改めイェシュア(イエスさま)を信じたなら、彼の霊は新しく生まれ変ることができるとあります。神の霊は、人の霊とともに、人間の良心を通じて(ローマ9:1)あかしすることが出来(ローマ8:16)、人の霊と良心とを通じ、人がその源流は神にあるという思いが、人の心に来るのです(ローマ8:6, イザヤ55:8-9).

それが新約預言の規範についての体験:私たちの良心を通じ、私たちの霊に、神の霊を通じた神の想い、その神の思いが私たちの想いにもたらされるのです。私たちがこの「神の想い」を、人に伝えるとき、それが預言、または神から与えられた知恵となるのです。

一方、私たちの内で預言を信じる人は、多くの場合、語る内容を「トーンダウン」させる必要があります。最終的に私たちは一部分だけを預言し、一部分だけ知っているだけなので、確定的な喋り方は避けるべきです。 新約預言は、あまり直接的で外面的な神からの命令という様なものではなく、むしろ神から私たちの心に、霊感による言葉とイメージを通じて与えられた、神の御心の内面的な理解なのです。

よって私たちは、より謙遜な、言葉や姿勢、口調、声の大きさ、「ジェスチャー」で語るべきです。私たちが預言するやり方は、私たちが伝えるその預言が当然の事として「一部分だけ」であることを知っている事実を示しているでしょうか?

ここにバランスがあります:「ノン・カリスマ派」は、新約信者も本当は預言出来るという事と、聖書の何処にもイェシュアの再臨前に、この賜物が無くなってしまうという様な事を教えてはいないという事を認識する必要があります。私たち「カリスマ派」は、私たちが預言している事はほんの一部分に過ぎないという事を認識する必要があります。そして最後に、凡ゆる神学的論争の只中にいる私たち全ての者に対しては、私たちが知っている全ての事も、ほんの一部分に過ぎないのです。なので、私たち自身が謙遜となり、他人から学ぶ余裕を残しておきましょう。


過程を受け容れる

Cody

神さまは、困難を通じて私たちの内で働かれたいと望んでおられます。どうしたら私たちはアップダウンの中でも、神さまと共に歩むことが出来るのでしょうか?

こちらをご覧ください

デンマーク語、オランダ語、英語、フランス語、韓国語、ポーランド語、ポルトガル語、スペイン語の字幕があります。


2つの世界の間に立つ

マレク・ガヴリス 

pebbles

2つの力の間に挟まれた感覚に陥った事がありますでしょうか?それは、一方にはこの世の事に対する享楽的な愛着があり、もう一方には今動きがある全てのものから来る否定的なヨソヨソしさがあるような状況でしょうか?

第1ヨハネ2:15 では、「この世の愛」は罪であり、父の愛から私たちを切り離しているので「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」と書いてあります。私たちは天に属している神の子供であり、物質的な切望やこの世的な欲望は私たちとは無関係です。

それでも同時に、父は大きな犠牲と痛みを伴った愛、それも独り子を、私たちの贖いのために渡されるほど偉大な愛で、この世を愛されたのです:「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」- ヨハネ3:16. 私たちは神が天の上から、私たち人間が物事を見るときにとりがちな態度である、冷たく、批判的に、突き放した様に見ているのではなく、ご自身を感情移入する愛をもって愛された事が分かります。

私たちはどうすれば、そんな世を愛する事なくそれを受け容れるという行き詰まり状態の中で、機能を果たす事が出来るのでしょうか?  

ヨハネ17:15 でイェシュアは「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」と祈られました。ただ聖霊さまの力によってのみ、このような、世の中にあって流されない聖なる「(テコの)支点」として立つ事が出来るのです。私たちはこの世的な影響を拒絶しつつも、恵みと真理に満ちた神さまの愛と御言葉によりこの世の人々を受け容れる。これがイェシュアの生き方でした。その闘いは父の前に捧げられた祈りによって勝ち取られました。その事により私たちのためにヨハネ17章で祈られので、私たちはこの様に祈るべきなのです。

私たちがこのバランスの取れたところに立った時に、初めて私たちは罪を憎みつつも罪びとを愛する事が出来ます。神さまの恵みよって、初めて、売春婦やテロリスト、さらに全く違う民族背景をもった人など、ボロボロになった人々の人生の中にある「迷い子-感」の中に入り、父の無条件の愛をもたらす事が出来るのです。