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© 2015 年3月20日

アシェル・イントレーター

最初の分派

私たちはよく一致のために祈りますが、完璧な一致のためには、分派をそのルーツから知っておく必要があります。興味深い質問は、この信者のコミュニティーにおける分派の始まりは何だったのかということです。ある人は、それがユダヤ人と異邦人の間のものであったといいます。より詳細には、最初の分派は、イスラエルのヘブライ語話者であるユダヤ人信者とギリシャ語話者であるユダヤ人移民や改宗者の間で起こりました。(使徒2:5 – 11参照)

使徒6:1
当時、弟子の数が増えており、ギリシャ語話者のユダヤ人により、彼等のやもめ達が日々配給されるべき対象から外されていた事について不満を訴えていました。

これら2つの「派閥」間には2つの鍵となるトピックが関係していましたー言語とお金です。それら重要な決定を行なうとき、どちらの言語を使うのか?コミュニティーに献金されたお金を配給する場合、どのような基準を適用するのか?驚くべきことにこれらの問題は、今日私たち自身のコングリゲーションで、イスラエルのミニストリーで、協力体制を揺るがす主要な課題となっています。

私たちは、ティックン・インターナショナル、アハヴァットイェシュア、ティフェレット・イェシュア、恵みの天幕、リバイブ・イスラエル、ゲートウェイズ・ビヨンド、ポールウィルバー・ミニストリーズ等、牧師やパートナーたちと素晴らしくて、愛に満ちた一致を保っています。先日私たちは4日間の話合い、シェアリング、祈り、そして管理運営上のいくつかの問題についての決議のため会いました。

こういった時、いつも一つの質問が出ます「では、何語で話しましょうか?」移民や外国からの人々の場合は、公用語は英語です。もしイスラエル人グループが大勢の場合は、ヘブライ語を使います。では、ミックスグループの場合はどうでしょうか?また、オープンなコングリゲーション会合の場合は、どこまで翻訳すれば良いのでしょうか?

給与、献金、支出について戦略的に鍵となる決断がなされる時、何語を使うのが、良いのでしょうか?イスラエルと外国で異なった生活レベルはどうでしょうか?支出額を変えるべきでしょうか?誰が予算を割り当てるのでしょうか?

言語とお金の事の決定についてはは、多分に誰が権威を持っているか、誰がリーダーかが関係します。当時の彼等が、言語とお金の問題を抱えていたのであれば、現在の私たちも同じなのです。2千年前に難しかったことは、いまでも難しいのです。

使徒6章で使徒たちのコミュニティーが抱えていたこの2つの緊張を乗り越えることができれば、使徒の1〜5章の奇跡的なリバイバルを経験することができるかもしれません。知恵が与えられるように、お祈りください。


なぜイスラエル政府のために祈るのか?

このメッセージでは、アシェルはイスラエルの政治事情と、何故私たちがイスラエル政府のために祈るべきかについて語っています。彼は、これらの問題が、どのように神さまの御国、およびイェシュアが再臨し、永遠の王としてダビデの玉座に就くことと関連があるかを提示しています。英語でご覧になるにはこちらをクリック!


ティックン理事会会議

ダン・ジャスター

先週、米国NPOティックン・ミニストリーの理事会 が大きな括りでの友好関係のグループやパートナーを交えて、行なわれました。その主導権がイスラエルに移るという大きな変革があり、アシェル・イントレータやエイタン・シシコフにより築き上げられたイスラエルにおける働きから流れています。私とアシェルは、共にこの会議の司会を務めました。

ティックンの主要な監督者の4人(私自身、アシェル、エイタン、ゲートウェイズビヨンドのダヴィッド・ルドルフ)がイスラエルに居住しています。私の息子ベン、運営部長は、現在イスラエルへの移転作業にあたっていて、そのティックン支援機関の運営業務を監督しています。

重要な注目すべき点がありました。米国に基盤を置く理事会が、どのようにイスラエルでのミニストリーに仕え、情報を与え、説明責任を果たしているかをより明解に理解することができました。私たちの理事たちは、これらの会合を実現させるための霊的で実際的な知恵を備えているのです。

今回の会合は、リバイブイスラエルでの朝礼拝、アシェルのメッセージ、イスラエルのコングリゲーションネットワークにつながっている牧師たちとの会合が含まれていました。彼らは人生のすべてや、ミニストリーの必要や課題をシェアし、祈って貰いました。とてもフランクで開放的な討議により、より明解な状態で前に進んでいくことができます。


王の王なるイェシュア

タアニット・エステルからのヘブライ語ワーシップソングです。ご覧になるにはこちらをクリックください。


複製

フランシス・フランジペイン

イエスは信者たちのことをどう思っていたのでしょうか。主は私たちを救うためだけに来られたのであり、訓練し、力付けるためではなかったたのでしょうか。主が私たちを贖ってくれたのは、究極的には、人間を内面的に主の複製とするためだったと私は思っています。

パウロの情熱を観るに、彼は「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテア4:19)と書いています。これこそが神さまが描く、教会のゴールで、その内にキリストが形づくられ、主が私たちの内で、私たちを通じて、機能的に現れるものなのです。

私たちの師のことばにはこうあります。「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです」(ルカ6:40)。神さまは私たちを十分に訓練し、「(私たちの)師ぐらいにはなるように」されるのです。

悪魔たちはさもリバイバルの希望はないように説得して来ますが、その論点には、キリストが私たちの内におられる事は含まれていないのです。イエスは、信じる者には、全ての事が可能だといわれました。


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